さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決めた最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのはこの作品。『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』。(BGMを聞いて)いやー、それは問答無用で上がりますよね! 2014年のハリウッド版『ゴジラ』の続編にして、キングコングとも世界を共有してる「モンスターバース」の第三作。前作の戦いから5年、環境テロリストによって最強の怪獣キングギドラが蘇ってしまう。
時を同じくしてモスラ、ラドンなど、世界中で17体の怪獣が姿を現す。さらにゴジラも復活し、怪獣王の座を賭けて壮絶な戦いを繰り広げる……。前作に引き続き渡辺謙が芹沢博士を演じる。監督はギャレス・エドワーズから『X-MEN』シリーズの脚本などを手がけた……あとはホラー映画なんかも撮ってましたけども、マイケル・ドハティさんという方にバトンタッチしたということでございます。
ということで、今回の『ゴジラ』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>のからの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、とても多い! やはりね、アニメ・特撮となるとドスンと増えるというですね、非常にわかりやすい傾向がございます。賛否の比率は「褒め」の意見が6割強。「ダメ」という意見が3割。残りはその中間といった感じ。
主な褒める意見としては「怪獣の迫力がすごい。これぞみたかった劇場版ゴジラ!」「過去シリーズへの目配せも完璧。ドハティ監督、ありがとう」という二点が大部分を占めました。また、お囃子調のBGMも相まって「お祭り映画」という声も多かったということでございます。あとはこういうね、伊福部メロディーみたいなのが今回ははっきりと使われていますから。そういうところでアガる部分もあったでしょう。一方、主な否定的な意見は「ドラマパートのあまりの杜撰さは看過できないレベル」「『ゴジラ』という作品が持つメッセージをないがしろにしており、怒りを覚えた」などの声が目立ちました。
褒めるにしろ、けなすにしろ、ドラマパートの雑さは両陣営とも認めるところということでございます。また、一部Twitter界隈では、今回のラドンが劇中のその振る舞いから「メキシコのイキリ鳥」「ゴマすりくそバード」などと呼ばれ、ネタ的にいじられているという……フハハハハハハ! あのね、そうそう。だから怪獣の人格化が相当進んだ状態なので、そういう風に面白がる要素はすごいありますよね。
■「宇多丸さんが勧めなかったとしても、僕はおすすめです!」(by黒沢薫)
はい。行ってみましょう。代表的なところ、行きますよ。ゴスペラーズの黒沢薫さんです! メール、ガツンと黒い(=文字量が多い)のをいただきました。すごくいっぱい書いていただいて、全部読みきれなくて黒ぽん、すいません。「結論としては誰が何と言おうと最高の映画です。『ゴジラ映画が好き』と言えば微妙な顔をされるのを諦めながら受け流す技もすっかり身につけた2019年。全てのゴジラファンをしのぐ狂気でマイケル・ドハティがついにやってくれました!
いままで誰も見たことない怪獣たちのバトル。初めて脳内補正の必要もない、そして僕らの脳内を超える怪獣バトルを映像にしてくれた! それでも大大大感謝なのに、バトルシーンに欠かせないあの音楽と共にゴジラが咆哮するとは。あそこは『アベンジャーズ/エンドゲーム』におけるキャップのあのセリフと同レベルの衝撃と感動です。その瞬間、涙が滂沱としてあふれ出しましたよ」。
これ、マイケル・ドハティさんが、いま流れているような伊福部昭さんのこういうメロディーとかは、要するに『ジョーズ』とか『スター・ウォーズ』とかと同じで、この音楽がない『ゴジラ』というのはそれは『ゴジラ』じゃないんだ、っていう……たしかにね。なんでいままでそれに気づかなかったんだろう?っていうぐらいのことかもしれないですけどもね。
ということで、「……その瞬間、涙が滂沱としてあふれ出しましたよ。巷で話題の人間ドラマシーンですが、僕から言わせれば、はっきり言って平成・昭和ゴジラシリーズ、さらに言うなら宇多丸さんがリスペクトしている平成ガメラシリーズを合わせた中でもかなりマシな方です」。まあね、それも言わんとしていることはわかりますけどもね。「……個人的にはこの映画は昭和・平成ゴジラ・ガメラを含め、全ての日本特撮怪獣物を総括し、予算やら技術やらで至らなかった面の補強をして再構築したものだと解釈しています。
昭和ゴジラと平成ガメラの設定の混合具合はおそらく意図的に行っています。その上で昭和・平成ゴジラオマージュは本家東宝よりも巧みでリスペクトがすぎるくらいです。『豪華なファンムービー』と言われればそれまでかもしれません。が、これだけ一般の人も巻き込んで結果を出しているのだから、もう5億点でいいのではないでしょうか? たとえ宇多丸さんが勧めなかったとしても、僕はおすすめです!」というね、黒ぽんの褒めメールでございます。ありがとうございます!
一方、ダメだったという方。「スナッチ」さん。「『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』をウォッチしました。賛否で言うと否定派です。とにかく脚本がひどいです。『怪獣映画だから』と許容できる範囲を超えてました。人間の登場人物が全員、怪獣マニアの狂人でついていけない。繰り返される自己犠牲。ほとんどダジャレみたいな展開。そして核の使い方にも疑問です。そもそも単なる怪獣映画じゃないから初代は素晴らしかったのに、そこから『脚本はどうでもいい』と脚本をおざなりにしていった結果、平成以降のゴジラ映画はどんどん好きな人だけが見る、子供だけが見る映画になって衰退していきました。
アメリカ版もその轍を踏んでいるように思えてなりません。というか、ラストのゴジラが起こすご都合主義的な奇跡からも、これは完全にキリスト教の影響を受けたゴジラ教の宗教映画だというのが真実だと思います。そうなってしまうと自分はゴジラ教には別に入っていないので興ざめする映画でした。以上です」ということでございます。でもまあ皆さん、同じ面を見てね、違うことをおっしゃっているという。いつものことでもありますけども、そういう面はあるんじゃないでしょうかね。
■『三大怪獣 地球最大の決戦』をマジでハリウッドでやっている映画
ということで、行ってみましょう。『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』、私もT・ジョイPRINCE品川でIMAX字幕3D、バルト9で字幕2Dという2回……すいません、「2ゴジラ」で申し訳ございません。「2キング」で申し訳ございません。2回、見てまいりました。吹き替え、見れていないですね。すいません。ということで、レジェンダリー・ピクチャーズが仕掛けるモンスターバース。僕は前の番組、ウィークエンド・シャッフル時代の2014年8月23日に評しました。ギャレス・エドワーズ監督版『GODZILLA ゴジラ』と、2017年4月8日に評しましたジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督の『キングコング:髑髏島の巨神』。こちらの方はみやーんさんによる公式書き起こし、いまでも読めますので是非参照していただきたいんですが。
とにかくそれに続く三作目ということですね。で、レジェンダリー版ゴジラの二作目。さっき言ったギャレス・エドワーズ監督による前作、まあいろいろと言いたいことがなくはない作品でしたけども、個人的には、特撮怪獣映画のツボっていうか、好きなポイントってそれぞれにあると思うんだけど、僕が個人的に好きなポイントっていうのは、平穏な日常生活、社会に「裂け目が生じる」感じっていうか、世界の土台が根本から揺らいでしまう感覚……それを視覚的に表現するための、「視点」演出というか、どこから怪獣を見るか、見せるか、という演出にグッとくるタイプだ、というのもあって。
そのギャレス・エドワーズ版の『GODZILLA ゴジラ』は、中盤のハワイ上陸シーンでの、本当に、今回も見直しましたけど、それはそれはうっとりしてしまうほどエレガントな視点移動演出。「うわーっ! 素敵!」っていう、あの見事さだけでも、僕は5億点出ている作品でございました。で、まあその後『シン・ゴジラ』があったりとか、あとはアニメ版もあったりしましたけどもね。そっちにまで言及している時間がないので行きますけども。ともあれ、気づいてみたらハリウッドでも怪獣たちが暴れるような映画が、『ランペイジ 巨獣大乱闘』とか、『パシフィック・リム』も含めて、普通にポンポンポンポン作られるようになっているという。
そういう時代を象徴するようなモンスターバースであり、特に今回の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』である、っていうことですね。『キングコング:髑髏島の巨神』の最後のところで、「次のゴジラ……ええっ? 『三大怪獣 地球最大の決戦』を、マジでハリウッドでやる気ですか!?」って仰天した人もいると思いますが。ええ、マジでやっている映画です!っていうことですね。
■筋金入りマイケル・ドハティ監督、「あいつとあいつをいまの映像技術でドッカンドッカン戦わせれば、超アガんね?」
で、前作のギャレス・エドワーズ監督はですね、2016年の『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の製作時のゴタゴタもあって、いろいろ疲れちゃったんでしょうか。「小規模作品に取り組むため」という名目で、この『ゴジラ2』からは監督を降板しまして。代わりに脚本・監督として抜擢されたのは、『X-MEN 2』とか『スーパーマン リターンズ』とか『X-MEN:アポカリプス』の脚本とか、あとはレジェンダリーピクチャーズ製作のダークコメディー調ホラー、『ブライアン・シンガーのトリック・オア・トリート』……だからブライアン・シンガーのお気に入りだったわけですけど、その2007年のコメディーホラーであるとか。あとは『クランプス 魔物の儀式』っていう2015年のホラー。これね、異形のモンスターたちがわちゃわちゃと実在感をもって跋扈して、ガンガン救いゼロの展開になっていくという、ダークなクリスマス・ジュヴナイルホラーっていう感じで、これは面白かったですね、めちゃめちゃ。
その『クランプス』とかを監督した方、マイケル・ドハティさん。まあ、大抜擢なわけなんですけども。で、とにかく今回のこの方がですね、明らかに……まあ、先ほどの黒ぽんのメールにもあった通りです。明らかに筋金入りのゴジラ映画ファン、特撮・怪獣映画ファンでして。今回の『キング・オブ・モンスターズ』、詳しく1個1個をやっていくとキリがないんですけど、オリジナルの昭和ゴジラシリーズのみならず、たとえば1984年東宝版とか、平成シリーズ、ミレニアムシリーズとか、あとは金子修介監督のガメラ三部作とか。
日本特撮映画の引用、オマージュ、サンプリング、アップデート描写などを満遍なく散りばめつつ、ここんところの現代怪獣映画ではどうしてもその割合が大きくなりがちだった、要はリアルシミュレーション志向、「実際に怪獣が出てきたら?」っていう──僕がグッと来るのはどっちかというとそっちのラインだったりするんですけども──そのリアルシュミレーション志向みたいなものも、「それはもう、前のギャレス・エドワーズ版ゴジラなどなどでもう、クリア済みの案件なんで!」とばかりに、サクッとそこは省いて。一気に、「もう怪獣バトルでしょ? もう、みんな見たいのは怪獣バトルでしょ!?」っていう方に舵を切ってみせた。
要は、「あいつとあいつをいまの映像技術でドッカンドッカン戦わせれば、超アガんね?」みたいな、そんな特撮怪獣映画ファン積年の夢を一気に具現化!的なね、そういう方向へと、驚くほどてらいなく(笑)一気に舵を切ってみせたという。
■善玉も悪玉も、怪獣たちがバトルし合うことに関しては、どっちも良きことだと考えている
まあ、モンスターバースの過去二作とも、ゴジラとかコングの位置づけっていうのは、地球・自然の守護神的な……まあ、ギャレス版ゴジラ評の時にも言いましたけど、ぶっちゃけ金子修介監督のガメラ三部作にかなり近い雰囲気だったわけですね。
特に今回の『キング・オブ・モンスターズ』は、失われた古代文明とのつながりがもう明示されているあたりとか、あとは僕がさっきから言っている、ゴジラが海底温泉、ゴジラ温泉に浸かって自らを癒やしているとか。あと、「目が合って」意思疎通っぽいものができたかも……みたいな、そういう描写とか。いよいよその、平成ガメラに近づいてきたな、っていう感じがするんですけども。まあとにかく、そのモンスターバース内では、ゴジラやコングは、要はガイア的な、ガイアの守護神的な、ポジティブな存在として描かれてる。
だから彼らのバトルも、もちろんビルが壊れたり、避難とか大変ですけど、トータルでは「善きもの」として最終的には位置づけられる、という感じなんですよね。ただここで、特に日本の観客としては微妙な感情にならざるを得ない要素もあって、要はゴジラという存在は、核・放射能と不可分な存在でもあって……まあこの部分に関しては後ほど、言及しますけども。ともあれ、さっき言ったようにですね、脚本・監督のマイケル・ドハティさん。そもそもゴジラ映画、特撮・怪獣映画にどっぷりな人なんで。
で、特に今回は、さっきから言っているように、思い切って怪獣バトルを、出し惜しみなくガンガン見せる!という方向に振り切ろうという狙いで作ってますから。とにかく映画の全てが、こういうことですね……物語も含めて映画の全てが、「怪獣至上主義」、もっと言えば「怪獣バトル至上主義」的な、一点集約型のつくりに、物語までなっている、っていうことですね。たとえば、登場人物たちがですね、一応通常の娯楽映画のように、善と悪、善玉と悪漢、正しい方と間違っている方、という風に、二分は一応されてるんですけど。色分けはされてるんですけど。
でも実際のところは、怪獣たちがバッコンバッコン出てきてバトルし合うということ自体に関しては、どっちも良きことだと考えているという……まさに作り手や怪獣映画ファンの願望とも一致する、大目的の部分ではどっちもどっちっていうか、どっちも同じことを目指してるわけですよ。で、対立しているのはあくまでも、強硬路線か、「まあちょっとね、様子見ながら……」っていうソフト路線かっていう、「路線」の違いで。要するに内ゲバなんですよ(笑)。
で、怪獣バトル、大いに結構! ガンガンやっちゃってください!っていう、作り手やファンの欲望と一致する大目的の部分では変わらないので、普通の、通常の倫理的な水準でドラマ部分を見ていると、普通の観客のつもりで見ていると、たとえば善玉的な立ち位置のキャラクターも、結局は「怪獣を暴れさせる」っていう方向で……しかも、なぜそれをするとそうなるのか?っていうはっきりとした確証もないまま、つまり、結果として大惨事が起きるかもしれないという危うさをはらんでいることに関しては、悪玉的なキャラクターの行動と大差がないまま、めちゃめちゃ乱暴極まりない行動を取り始めたりするので。見ていると「ええっ?」っていう風に混乱するし、よくわからなくなってくる。
■「いい怪獣が仕切ってこそ、地球のバランスというものが取れるんですよね」(芹沢)
逆に、一応の悪漢側。たとえば今回のね、悪漢。『ゲーム・オブ・スローンズ』のタイウィン・ラニスターこと、チャールズ・ダンスさん演じるエコ・テロリストもですね、途中で、非常に重要な装置だったはずの、怪獣っていうか今回は巨神(タイタン)とコミュニケートできる……まあ「現代の十戒」とか、きれいな言い方をしてもいいけどさ。まあとにかくあの機械が、怪獣となんかピヨーンって……犬笛ですよ、犬笛。怪獣犬笛。それを大事な物みたいに扱ってるんだけど、途中で子供に奪われて逃げられるっていう、まあいかにも子供向け映画っていう感じの杜撰な、迂闊な、ゆるい展開があるんだけど。
そしたらね、奪われた途端に、「いや、まあね、一旦怪獣さんたちが暴れだしてくれればまあ、同じことなんで……」って、異常に急に淡白になってですね(笑)。事態というか物語への介入自体を、淡白に止めてしまう、っていう感じになるわけですよ。だから、まともな感覚で見てると普通に飲み込みづらかったり、「えっ?」って唖然とさせるような展開の連続なんだけど。それもこれも全ては、「怪獣バトル至上主義」という一点において、善玉も悪玉も作り手も、そしてそれを望んでいるファンも一致しているから、っていうことなんですね。
だから、怪獣映画ってやっぱり、その人間ドラマとのリンクって難しいところなんですよ。最終的に怪獣同士が戦い出すと、人間はただ傍観をしているだけになりがちで。その意味では、やろうとしてることが怪獣バトル、オールOK!っていう人たちで一致してるので、人間ドラマのリンクはたしかに増えてるんですけど、その分、変!っていう(笑)。で、実際に冒頭で、モナークっていうモンスターバース共通の組織代表として、その名も「芹沢猪四郎」っていうね、もう露骨すぎるオマージュネーミング、芹沢猪四郎博士こと、世界のケン・ワタナベが国連でするコメント。
まあ要するに、「いい怪獣が仕切ってこそ、地球のバランスというものが取れるんですよね」っていう、本当にそのまんまの話に終始していくわけですよ。最初に言った通りのお話だけですから、もう。で、ちなみにこの芹沢博士、ギャレス版ではほとんど活躍の余地がなかった。だから「あれはなんだったんだ?」なんて僕、文句を言いました。その意味では今回は、ズバリ「オキシジェン・デストロイヤー使用の尻拭い」のために……つまり、1954年のオリジナル版の芹沢博士とわかりやすく対をなすような、重要な役割を果たすこととなっていて。
その意味では、大変結構なことですよね。芹沢博士、ようやく……「オキシジェン・デストロイヤーか、なるほど、1954年のオリジナルと対になっている! うんうんなるほど、よく考えてある!」って、言いたいところなんですけども。まず、ここで彼が取る行動は、普通に考えて、タイマー方式なんだったったらタイマーをセットして逃げればいい話では?っていう(笑)、誰もが思うことなんですけど(※宇多丸補足:ここ、放射能が強すぎて帰還は不能という“お話内で提示される理屈”は一応あって、そこをもって必然性は十分あるとおっしゃっている方が多いのも存じていますけども、それでも、タイマーをセットして思い入れたっぷりに起爆まで待つ、という時間的余裕が、作劇上の疑問を生じさせることに変わりはないと思います……たとえば、”タイマーも現場で機能せず、もはや直接起爆しか方法がない”とか、自己犠牲的行動に説得力をもたらす工夫の余地は、まだまだ全然あったはずなので)。まあ、それは置いておいてもですね、あるキャラクターが、死んでしまうこと必至の、自己犠牲的な役を買って出る……まあ、よくある場面ですよね。この間の『エンドゲーム』でも出てきましたよ。
その手の場面で、それはたとえば、その場ですぐに決断しなきゃいけない……なんか事故とかがあって、のっぴきならない状態になって、その場で決断しなきゃいけない、「やむを得ない!」っていう風になって初めて、ようやく「美談」に転がるものでしょう、こういう自己犠牲っていうのは。そうじゃなければただの自殺、みたいなことになっちゃうから。やむなし!だから美談になるんだけど、本作では、かなり手前の段階で、死んでしまうだろうという作戦を、「これは、死んでしまうな」「うん、俺がやる!」「そうか!」って……誰も止めないのかーい!(笑)っていう感じになっている。
■人それぞれのゴジラ観によって何を良しとするかは変わってくる
つまりこれは、「芹沢博士といえば、自己犠牲」。ゴジラに対する自己犠牲ですよね。そしてそれが、「54年版のオリジナルと、上手く対照になっているよね」っていう、言っちゃえばゴジラ映画史的な構図、もっと言えばゴジラ映画ファンへの目配せありきで、というか、それ「だけ」で話を作っちゃっているから、ここはこんなにおかしなことになっちゃっているわけですよ。他にもたとえば、「モスラと言えば、双子の女性だよね」っていう。「モスラと言えば双子……知ってるー? アメリカ人のみんな、知ってるかなー?」「双子! 知ってるよー!」なんつって……という、やはり怪獣映画史的な目配せのためだけに、チャン・ツィイーに一人二役をやらせていたりとか。
本作の中での物語的必然性は全くないんだけど、そういうことをやっていたりするわけですよ。まあ、事程左様にですね、あまりにも特撮怪獣映画、ゴジラ映画の、文脈や美意識、フェティシズムの、内部だけで全てをよしとする作りになっているため、普通に考えたら筋が通らないところ、よく分からないところ、あとはさっきから言っている、大筋で同じことを目指してるやつらの内ゲバ的言い合いのシーンとかでイライラさせられたりするところは(笑)、正直、たくさんある映画ではありますね。あと、モナークの中のゴジラ対策チーム、Gフォース的なメンツがいるわけですよ。非常に目立つ感じで、キャラもちゃんと立てて扱われているけど、彼らがたとえば、メキシコで、いきなり地上に行って、避難のお手伝いとかしている。
「あれっ、いつの間に……この人たち、避難の仕事とかしてる。Gフォースじゃないの?」とか思っていたら、避難のお手伝いとかしていて。かと思いきや、たった1人だけ男の子を助けて、飛行機に乗せて。で、めちゃくちゃ危ない帰船の仕方をして(笑)。「うん、全体を危機にさらしているよね?」みたいな。いちいちなんていうか、「世界が狭く見える」っていうか、ぶっちゃけはっきり言えばやっぱり、どんどん子供向け映画みたいな感じになってきている、というようなところは目立ちますね。
で、「そんなこんなも全ては、怪獣同士を戦わせて『イエーイ!』っていう一点のための、一応の段取りで。そんなもん、元々怪獣映画ってそういうもんでしょう?」って言われれば、もうそれはぐうの音も出ませんが。だからそこでやっぱり、1954年のオリジナル版の精神をベースにするのか、それ以降のシリーズ化したゴジラ、平成やミレニアム以降のものも踏まえたそれにするのかで、つまりその人のゴジラ観によって、だいぶなにを良しとするかは変わってくる、分かれると思いますね。
■「ちゃんと好きな人が作ってる感」は伝わるが、微妙な気分になるところも
で、ですね、実際にたとえば、今回のゴジラ登場シーンにあたる海中でご対面!のところとか、まああそこはなかなかフレッシュでしたし。あとは大人気のラドン。表情豊か。ちょっと豊かすぎるきらいもありますが(笑)。まあ非常に人格化された怪獣の扱いとして、面白いし、あとはなんというか、ラドンがブワーッと飛ぶところの、影が地上にうつって、ワーッてなる、オリジナルオマージュ的なショットがあったりとか。そういうのも「ああ、ちゃんとやってんな」とは思うし。
あとは、キングギドラ登場の際の……あのネーミング、「モンスター・ゼロ」っていうあのネーミングも、もちろん旧シリーズを踏まえたものですし。まず最初に、岩場のところで、下から尻尾が出て、2本目の尻尾が出て、首が1本、2本、3本ある!っていうこの見せ方の段取りとかも。まあ、アガるし。あとは電光の形も、ちゃんと「わかっている感」っていうのを示していますし。あとは、新しいところでいうと、キングギドラの3つ首同士の、キャラの微妙な違いというか、トリオ漫才みたいなやつね。それも、これまでにない楽しさがちゃんと付加されているし。あの床の、なんかね、たぶん人間の血なのかな? ペロペロしてるのを、「おい、みっともないからやめろ!(ボーン!)」みたいにやる、みたいなのも、まあ楽しいっちゃ楽しい。
ただまあ、せっかくキングギドラがドカーン!って出てきたのに、そのキングギドラが、ものすごくちっちゃいところの人たち、ちっちゃい目標を狙う絵面を、引きの画で見せていたりするから、全体になんかセコい見え方しちゃっているな、っていう風に感じるのは僕だけ? あとは、クライマックスのバトルで、たとえばガシャンガシャン!ってビル街で戦っている中で、あの鏡面、ミラー的な表面になっているビルに、ギドラが倒れていて、ゴジラの姿が映ってドーン!っていう……あれはたぶんだから、たとえば1984年版の、銀座マリオンの鏡面にゴジラが反射する、っていうところのオマージュなのかな? とか。
まあやっぱり、「ちゃんと好きな人が作ってる感」っていうのはもちろんあるわけですね。あとクライマックスね。キングギドラに、奥から手前に追いかけられる。これはやっぱり、これまでの特撮技術では絶対にできなかったショット。ただ、その追いかけられている人物、ベラ・ファーミガ演じるその人物が、あまりにアウトな行動を取った人物なので(笑)。「うーん、なんか、なんかなー……ハラハラっていうか……なんかなー!」っていう感じがする場面なんだけども。でも、そこからの、非常に今までは不可能だった見せ場からの、ゴジラの最後の、大見得。ここぞというところで、伊福部昭などのオリジナルテーマ曲のメロがドーン!と流れたりするのも、今回の、たしかに大きなカタルシスポイント。
さすがにもう生理的に、無条件に鳥肌が立ってしまうっていうところは、それはやっぱりありますよ。こんだけいろいろと言ってきましたけども。ただですね、そこで、『ゴジラvsデストロイア』ばりに赤く発光するゴジラ。それまでは基本的に青発光。「正義組は青発光」っていう、まあなんとなくナウシカ的な色分けをしているわけですけども。モスラも、心が落ち着いている時は青発光──あれ、すげえ王蟲だったね(笑)──まあ、いいんだけどさ。青発光からの、パワーアップ感。赤くなったからヤベえぞ感の、ゴジラ。赤く発光して、それはかっこいいんだけど……要はそれ、やっぱり実質、放射能をまき散らしているわけですよね、ゴジラさんはね。
で、そもそもゴジラ、なんでそんな真っ赤になってまで放射能をまき散らしているか?っていうと、ゴジラを再起動するために核爆発を利用するっていう、ちょっとやっぱりね……ゴジラ温泉でこうやって落ち着いていたら、鼻先でドーン!って。オレね、さすがのゴジラも、「オイッ! 湯に浸かってんだろ!? そりゃ、大好物だけどさ!」って(キレていい仕打ちだと思う)。温泉でゆっくり傷を癒やしている人に、「はい、スタミナ剤! はーい、ニンニク注射、ドーン!」みたいな(笑)。まあ、それはいいとして。
まあその、核爆発を利用して、ゴジラをなんか利用する、みたいなのは、たとえば『ゴジラvsキングギドラ』とかでも出てきた発想ではあるんだけど……今回ほど露骨にそれをポジティブなものとして使われると、やっぱり日本人としては、若干微妙な気持ちにならざるを得ない。あと、人類史上の大発見でもあるはずのあの文明の痕跡を、科学者のくせに、芹沢さんがわりと何の躊躇もなく破壊して。個人的な感慨と共に破壊するのとか、なんか野蛮だな~と思ったりもするし。
■言いたいこともあるが、感謝すべき映画ではある
でね、いや、いいの。最後の最後、地球は怪獣の天下になりました。最初に芹沢さんが言っていたように、人間こそが怪獣のペットになる世界が始まります。そういう振り切った結論で終わること自体は、それはそれでいいんです。ゴジラのキング・オブ・モンスターズ性っていうのを、あそこまではっきり画にして見せたっていうのはさすがに、さすがに感動というか。ああ、ここまではっきりと、「キング!」っていう絵面、構図で見せたのは初めてだし、ここまでやりきれば立派!って思うんですけど。その後にエンドロールで、そのゴジラが……カイル・クーパーのプロローグ・フィルムズが作ったエンドロールで、「ゴジラが、エコ的なものにものすごく役に立っています、オールOKです!」みたいなことを言い出す。
これによって、要するにゴジラの、今回のモンスターバースにおける、ガメラ的な、そのエコロジー的な地球の守護神として置くというそのモンスターバースの基本路線と、やっぱり、核兵器・放射能と不可分の存在でもあるというゴジラ……特にマイケル・ドハティさん、ゴジラ映画史をリスペクトしているからこそ、ちゃんと放射能を描きましたっていう、そことの矛盾が、ものすごく大きなことになっちゃっていて。僕はこのエンドロールで、ものすごい欺瞞性を感じちゃって。
あのエンドロールがなければまだ、僕は「うん、これはこれで」って思えたんですけども。あと、「神話的な画作り」っていうのにこだわるあまり、ちょっと雷雨とか雪の中とか、シチュエーションこそ違え、全てが「煙った光景」の中でのバトルが続くのが、個人的には結構単調に感じたりしました。
まあでもね、怪獣バトル映画を、こんな感じでね、リアル路線から脱して、この路線でガンガンやっちゃってること自体が、まあ感謝しなきゃいけないんでしょうし。いろいろ、やれることのハードルが下がったのは間違いない。ただ、その先が「面白い」かどうかはまた別の話……ぜひぜひ劇場でね、リアルタイムの最先端ゴジラ映画をウォッチしてください。
(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『海獣の子供』に決定)